豊島作 真龍書(彫駒)金龍の市川米庵書    
 
     写真をクリックして下さい

    

将棋棋士から駒作りに転職した初代豊島龍山ですが、当初は自身のオリジナル書体は持っておらず、先人の残した駒を参考にして駒作りに励みました。
明治末期頃の専門棋士達が使用する駒の生産をしていた専門駒師は亡くなり、十二世名人の小野五平などは天童などで生産された草書体書き駒(番太郎駒)を使用していたそうです。
大阪では芙蓉の堀駒を坂田三吉が使用しており、一部の専門棋士は自作の駒を販売して利益を得る事が可能となり、そんな中の一人が豊島龍山や奥野一香です。
そんな彼らは、対局や指導に多くの駒を見、手にして当時の高級駒を再現したいと思う事は当然であり必然です。
明治の頃の高級駒は金龍、宗金、真龍、芙蓉、などですが、関東では金龍、宗金、真龍が残した駒書体を模倣するしかありません。
伝統的な書体は水無瀬形、金龍の市川米庵(水無瀬写し)、そして真龍の董斎型が専門駒師や資産家に好まれた時代で、多くの模倣書体が生まれます。
中でも水無瀬形や金龍形は棋士達の憧れであり、オリジナル駒のレプリカ駒は欲しがるのは当然ですが、既にオリジナル駒は失われた状態です。
そんな時代に在って、東北の雄「竹内家」は資産家でもあり、淇州は棋力も高く東北の将棋名人と賞され棋力も高く、多くの棋士が訪れ当時の将棋界の重鎮でした。
竹内家は江戸期より数代に渡り将棋名人家の大橋家と交流が深く、大橋家より水無瀬形や金龍の駒を譲り受けており、将棋史を知る上での多く資料を残しました。

天童の桜井師から佐藤公太郎さんが、竹内家から頂いた駒の中に金龍造の駒があり、その時の資料を残して下さり、そのコピーを頂戴致しました。
桜井師の了解を得ましたので公開します。
資料1   資料2   資料3

資料1で半分程は消えてしまいましたが、右上は駒の銘ですが、画像は写真を1枚にまとめてコピーした物をコピーした物を画像にしましたので、確認が難しいと思います。
しかし、紙の元画像では明瞭に判断できますが、半分以上は銘が消えています、でも、その残された痕跡から「金龍造」と読めます。
おそらく、この書体はその特徴から、市川米庵の水無瀬写しの楷書体駒だと思われます。
江戸期の市川米庵は書家の大家であり印刷書体の開発に尽力した人物で江戸末期に活躍し、息子の市川万庵とも親しい間柄でしたので、市川米庵の銘は金龍の銘に置き換わった程だと、文豪の幸田露伴が記しています。
又、幸田露伴は「将棋と碁の将棋雑話」の中で、「金龍は真龍よりも勝れ、真龍は安清より勝れたり、金龍、真龍などの造れるは玉将の後に銘あり。
駒の文字もいと正しく読み易く、玉は二枚とも必ず玉と書しありて王とは書さず。」と記されており、「駒文字もいと正しく読み易く」とは露伴が見た駒は」楷書体であった事が予見され、
金龍、真龍の駒は楷書体の駒であったと予感させています。
まだまだ日本国には各地方によって方言があり訛りもありますが、文字にも流派や地方によって異なる書体でした、幕末の頃には文字の標準化となり印刷文字の統一化も必要だったのです。
ですから、金龍の市川米庵の駒は駒文字としてまさに文明開化だったのです。

さて、本題の本駒について書体は真龍書となっており、真龍が残した駒の写し駒だとは思いますが、本歌駒金龍の残した「市川米庵の水無瀬写し」の駒を、真龍が写し、その真龍の駒を豊島が写した、とする事は多少疑問です。
真龍が金龍の駒を写した場合、銘書体は記せなかった時代ですから、書体銘は憚れたはずです。ですから豊島は無銘の真龍駒を写して真龍書としたのだとする事は当然だと思います。
同様にして奥野の明治期の駒も「市川米庵の水無瀬写し」ですが書体銘を記する事が出来ませんでした。
しかし、実際に残された真龍の「市川米庵の水無瀬写し」の駒の書体は本歌駒の金龍の駒と異なる点が数か所あり、真龍の駒の写しである事は少々疑問です。
むしろ、奥野や豊島の本駒の方が金龍の「市川米庵の水無瀬写し」の駒に近いと感じる書体で、真龍の写し間違いは引き継いでいません。
おそらく、豊島も奥野も、別の金龍の駒の写し駒を見て金龍の「市川米庵の水無瀬写し」の駒を作り、奥野は無銘とし豊島は真龍書としました。

時代的にも本駒は明治から大正初期の豊島の木地から作成されており初代太郎吉の作品である事は確認しました。
漆の状態もマイクロスコープで観察しますと劣化があるものの当時の漆が用いられ、漆の乾燥時に付着したゴミも多数確認され、相当に製作環境は悪かった時代に作成された駒だと思われます。
本駒は真龍書となっていますが、真龍の駒を写した物ではなく、別の本歌駒の金龍の市川米庵の書体を写した作品です。

しかし、彫の技術は、割合に高度であり、同年代の奥野よりも上位だと感じる物ですが、現代駒では普通の普及駒程度です。
残された多くの豊島の駒の彫駒はほとんどが外職の普及駒ですが、本駒は太郎吉の手による、非常に珍しい彫駒の作品だと思います。

明治の頃の東の将棋駒界は冬の時代であり、多くの棋士達が駒を自作して使用しておりました、酒田の雄、竹内淇州も自作の将棋駒を作りますが、佐藤公太郎氏は淇州から関根名人に渡した駒「錦旗」の駒の書体が本当は淇州書ではなく、実は金龍の「市川米庵写し」ではないかと疑問に思っており、氏の残した「みちのく豆本」に詳細に語っております。
この疑惑は、関根名人の「錦旗」の駒はロストしてしまい、当時未発達だった情報収集の時代には解明できませんでしたが、今日ではネットという強力な武器により、実在する駒が少しずつ歴史を解き明かしてくれ、淇州駒でも親駒と子駒と孫駒に曾孫駒の違いも見分けられるようになりました。

当時、高級駒は金龍の駒、真龍の駒、宗佳宗金の駒であり、淇州が見慣れた書体は水無瀬、董斎、董仙そして金龍の市川米庵の書体です、中国書家から書を習った本格的な書家であった淇州が、当時高級駒書体のそれぞれの特徴を生かして創作した駒書体とは、どの様な書体だったかと想像して下さい・・・・・・・・・・・・・・・・・
やはり、淇州が当時の駒書体(金龍、真龍董斎、水無瀬)を参考にして創作した「錦旗」は淇州書だと納得できましたでしょうか。

本駒の書体は金龍の市川米庵水無瀬写しを真龍が写し、無銘とした駒を豊島が写したから真龍書としたと思うのは誤りだと思います。
又、豊島太郎吉の時代は十二世名人の小野五平の時代で、将棋家の大橋家伊藤家以外から出た小野五平は少々偏屈で、必ずしも双玉の駒を用いる事はせず、片玉の駒を用いたようです。
そんな中で育った豊島は片玉の駒を好んだようで、元駒は双玉であった書体を片玉に変更したのでしょう。